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佐藤 愛子(さとう あいこ、1923年11月5日 - )は、大阪市生まれ、西宮市育ちの小説家。 小説家の佐藤紅緑、女優の三笠万里子の次女として生まれる。異母兄に詩人のサトウハチロー、脚本家で劇作家の大垣肇。甲南高等女学校(現・甲南女子高等学校)卒業。 == 経歴 == *1923年 - 11月5日(戸籍上は11月25日)父佐藤洽六(紅緑)母シナの次女として大阪市住吉区帝塚山に生まれる。当時父は50才。母は30才。母のシナは元女優(芸名三笠万里子)。父は、先妻はるを棄ててシナが25才の時に再婚〔佐藤〕。 *1925年 - 兵庫県武庫郡鳴尾村(現西宮市)に移転。自ら「私の故郷」と呼んでいる〔佐藤愛子「淡路島」(『文藝春秋』2007年5月号)〕。 *1931年 - 小学校時代、大衆小説の大家である父へ送られてくる雑誌の恋愛小説を読みふける。算術は苦手であった。 *1936年 - 4月、神戸の甲南高等女学校に入学。スポーツや演劇でクラスの人気者になる。自己嫌悪にも陥った。〔佐藤〕 *1941年 - 3月、女学校卒業。兄サトウ・ハチローの家に寄寓する。雙葉学園英語科に入学するが3か月で中退。帰郷し7月肋膜炎で臥床。治癒した頃戦争が勃発。 *1942年 - 防火演習、防空壕掘りなどをして、花嫁修業はせず、無為に過ごす。 *1943年 - 12月、最初の夫(病院長長男:森川弘)とお見合い結婚し、岐阜県恵那市(旧大井町)で暮らす。「戦争だから、しようがないから結婚していた」という〔北杜夫『マンボウ談話室』p.115(講談社、1977年)〕。 森川は陸軍航空本部勤務のため、飛行場設営隊の主計将校として赴任、同地で約5カ月の新婚生活をおくる。〔佐藤ここには別の市が書かれているが間違いである〕 *1944年 - 11月、現清水市の疎開中の実家で長男出産。 *1945年 - 夫の実家である大井町にて敗戦を迎える。「戦争が敗けて、これで自分もこの結婚を解消して、自分の好きな道に進めるんじゃないかということを考えた」という。人手の多い病院で、穏やかな日々を過ごす。この年、次兄が原爆死。3兄がフィリッピンで戦死。〔佐藤〕 *1946年 - 復員した夫、長男とともに千葉県東葛飾郡田中村、現柏市で帰農生活に入る。軍隊在職中の腸疾患治療のための夫のモルヒネ中毒に悩む。 *1947年 - 長女、夏を出産。 *1949年 - 父、紅緑死去。享年76。 夫が太平洋戦争中モルヒネ中毒となり、戦後も治癒せず。世田谷区上馬にて母と共に暮らす事となる。母に勧められ田中村の生活を書いた小説を父に見せたら、面白いと言われ文学を志す。父の紹介で加藤武雄に原稿を見てもらう。子供2人は婚家先の両親が引き取る。〔佐藤〕 *1950年 - 同人雑誌『文藝首都』に参加、北杜夫、田畑麦彦、なだいなだらがいた。同誌に処女作「青い果実」が発表され、同作で文芸首都賞受賞。 *1951年 - 別居中の夫、死去。同人誌に「西風の街」6月号に「宇津木氏の手記」を発表。同人誌仲間と渋谷、新宿を歩きまわる。仲間には後の結婚相手もいた。〔佐藤〕 *1952年 - 「冷焔」を発表。その後、しばらく文学への自信を喪失。 *1953年 - 母と衝突し、信州伊那谷の鉱泉に1か月滞在。田畑が訪れ、関西地方をともに旅をしたことが、結婚の契機となる。6月、実家を出、自立。「聖路加国際病院」で庶務課員、病院ハウスキーパーとして働き始める。 *1954年 - 「埋もれた土地」を三田文学に発表。 *1955年 - 12月、聖路加病院を辞める。 *1956年 - 2度目の夫、田畑と結婚。披露宴が4月1日だったため、嘘だと思って来なかった客もいたともいう。田畑と暮らしていた渋谷区初台の家売却、母、世田谷区上馬の家売却。世田谷区太子堂にて、母と同居。新居は文学仲間のサロンとなった。〔佐藤〕 *1957年 - 田畑、川上宗薫らと同人誌『半世界』作る。 *1959年 - 『三田文学』に作品掲載 *1960年 - 3月、田畑との間の長女響子出産。母との共同出資で自宅を新築。 *1962年 - 最初の著作『愛子』を刊行。 田畑、第1回文藝賞を受賞。 田畑、父が生前著名な実業家であったことがきっかけで、産業教育教材販売会社「ソノサービス」の設立、経営に参加。 *1963年度 - 上半期『ソクラテスの妻』で芥川賞候補。連続して下半期『二人の女』で芥川賞候補。 *1966年 - このころからエッセイの注文が増える。 *1967年 - 12月、田畑の会社、倒産。夫の借金を背負う。倒産額は2億で、うち3500万円位、引き受ける。〔佐藤〕債権者に追われ、原稿料が会社の債務返済に消えていく日々が続く。借金返済のために多数のジュニア小説を執筆。 *1968年 - 1月、「借金から身を守るための偽装離婚」という田畑の説得で離婚。 *1969年度上半期 - その体験を描いた『戦いすんで日が暮れて』で直木三十五賞受賞。波乱万丈の人生は、その後の自身の執筆活動にも活かされている。 *1972年 - 母、死去。享年78。 *1979年 - 4月、『幸福の絵』(新潮社)を刊行、女流文学賞を受賞。 *1980年 - 娘の響子とともに、タイ、インド、エジプト、ギリシア、イタリア、イギリスへ23日間外国旅行。7月『奮闘旅行』、11月『娘と私のアホ旅行』を刊行。メス犬のチビを飼う。 *1984年 - 迷いイヌのタロを飼う。 *1988年 - 秋、一人娘響子が結婚。一人暮らしとなる。 *1989年 - 7月から「血脈」第一部を別冊文芸春秋に書き始める。 *1991年 - 孫桃子が生まれる。 *1994年 - 娘と一緒に住むために2世帯住宅を新築。 *2014年 - 91歳で作家人生最後の作品と位置付けた長編小説『晩鐘』を刊行。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤愛子 (作家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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